社会と政治
社会を形成する意義
人は社会的動物であると言われる。生存するために孤独であることはできない。すでに社会の中に存在する個人が孤立するのではなく、社会そのものから孤立することが極めて難しいのは、単純な衣食住を賄うだけでも、知識と労力が必要であるからだ。現在の文明が享受している生活を、一生で個人が成し遂げることは不可能である。集団生活を営む意義は、分業による効率化な生産と、知識や技術の継承である。生きることをより安易に快適にするためには、生命維持のための生産・消費活動を、高度に発展させる必要がある。そのために、共同活動を行っていると考えることができる。
社会は歴史的に継承されたものである。その記録は主に文字(言葉)によって受け継がれる。文明の利器を享受できるのは、人類の試行錯誤による知識と生産物が、後世に受け継がれてきたためである。
社会集団の分類
社会集団の分類は、「ゲマインシャフトとゲゼルシャフト」「第一次集団と第二次集団」という形で、主に二つの対立軸で語られる。これらの区分は、「公と私」の概念とほぼ一致している。愛情に基づく私的な集団と、目的合理性に基づく公的な契約関係の集団である。「私」に基づく最小単位が血縁関係である家族であり、「公」の最大単位が国家である。
両者は関係性の区分であるため、組織や空間、人によって固定化されたものではなく、関係性の親密さによって結びつきは流動的である。一般的に多く人数が集まるほど、その関係性の密度は希薄となり公になる。
政治の意義
政治とは、ある領域に属する人達の利害を調停し、争いを廃し秩序を保つための営みである。社会の維持・発展を目的として、対立関係の調停と協調関係の構築という2つの役割がある。
対立関係が生じるのは、富や権力、社会的地位などの価値が希少であり、平等に手に入らないことによる。生命を維持するためには生産活動と消費活動の両方が必要である。生産活動は労力を伴うが、消費活動は快楽を伴う。生産するコストをかけずに他人の所有物を奪うことが「犯罪」と呼ばれるものである。消費するだけの社会はいずれ崩壊するため、生産された果実を各自の所有物として保障する権利や、公正さを担保するための仕組みが必要となる。
「結果の平等」が社会主義の崩壊によって頓挫した現代においては、「機会の平等」を分配政策によって担保した上で、公正なルールで社会を運営することが政治原則となっている。
ある領域を統治するためには、統治するための原則(規則及び政策)が必要である。統治原則は、支配者が独裁的に決めることもあれば、宗教の教義が原則になることもある。近代以降は、一般市民が意思決定のプロセスに関与する民主政治が行われている。統治領域が拡大し、意思決定の内容が専門性を帯びることから、市民が決定そのものに関与する「直接民主制」ではなく、審議・議決するための代表者を選択する「間接民主制」が実務的に選ばれている。
支配の正当性をマックス・ウェーバーは「①伝統的支配 ②カリスマ的支配 ③合法的支配」に分けている。これを歴史的な支配の過程と見ることもできるが、伝統的支配もカリスマ的支配も、形式的に合法化することが可能である。問題は法の実質的な正当性がどれだけ担保されるかである。法そのものが正当であることと、法の制定や執行の手続きに違法性がないことが要求される。そのためには意思決定のプロセスに市民の意見が反映され、決定に納得できる仕組みと情報が公開され検証できる仕組みが必要である。
国家と国民
国家の定義
統治されている支配領域は一般に「社会」と呼ぶことができ、その最大のものが国家である。国際協力の枠組みはあるが、世界政府が存在しない限り政治の基本単位は「国家」と考えるべきである。EUのような通貨が統一された連合は、あくまでも経済同盟であって、政治的統治を共同で行っている訳ではない。共同体の結びつきを地球規模まで拡大することができないのは、言語が統一されていないことや、人種・民族ごとに見た目や経済レベル、宗教・習俗が異なるからであろう。
国家の境界は、領域で区切られており、領土・領空・領海、領海の周囲に接続水域や排他的経済水域が設けられている。国境は人為的に経線や緯線で区切られるものと、山脈や海、河川などの自然的地形で区切られるものがある。日本は島国のため国境は海洋で区切られており、自然的地形の障壁により他国からの侵略を受けることが少なく、万世一系の天皇という独自の平和的統治が行われてきた。
国家を構成する三要素として、「領域、国民、主権」が挙げられることがある。領域とは支配下にある土地(空や海も含む)のことで、国民とは統治下における市民、主権は支配する上での権力・権威を意味する。国家や社会と呼ばれる構成単位は、概念としてあるだけであり、目に見え手に触れられるものではない。共同体を人々の集まり(集団)と捉えれば、目で見ることができるが、行政単位、政治組織と捉えるなら、意味や機能としてあるだけで目で見ることはできない。我々は人為的な虚構を現実にあるものとして、構成して生きているのである。
国家の役割
文明が発達し人口が増えてくると、国家の政治的役割は拡大する。内外の治安維持だけではなく、経済の発展や格差の是正、多様性の確保なども課題となる。最小限の役割を担う「夜景国家(消極的自由の確保)」から、「福祉国家(積極的自由の確保)」へと移行する。経済の発展に伴って、犯罪は一般的に減少しているが、相対的に格差が拡大すると、治安の悪化や経済成長の停滞が予想される。また、人々が要求するの権利意識の拡大によって、国家権力から干渉されない自由だけではなく、国家権力によって創出される自由の割合が次第に増えてきたのである。
国家は、その起源を「神権説(王権神授説)」や「社会契約説」、「征服説」などで説明されてきた。神権説は統治の起源を神ないし宗教に置き、社会契約説は成員の合意に基づくとされる。征服説は民族や階級における権力闘争の結果生まれたと考える。国家の歴史的な変遷を考えれば、奴隷制・封建制・絶対主義・資本主義(及び民主主義)・社会主義と進んでおり、一部の支配者による統治から、社会契約説を根拠とした民主主義により国家が正当化されている。
国家の本質に関する分類には、「法人説」「有機体説」「多元説」などがある。国家法人説は、国家そのものに人格権を与え、統治権の主体とみなす。国民主権による個人主義と君主主権による全体主義の、中間的な妥協と考えることができる。日本では「天皇機関説」として知られており、天皇の主権性を否定し、さまざまな意思決定機関の一つとした。国家有機体説は、国家という一つの共同体が個人に優先すると考えるもので、個人主義を本質とした社会契約説と対立する。個人よりも全体、現在よりも歴史的な伝統を重視することから、君主主権を正当化する保守主義の主張となっている。多元的国家論は、国家を社会的組織の一つに過ぎないとみなすことで、その統制的な権力を奪い、中央集権化を阻止する思想である。
主権の意味
主権とは国家が持つ統治権のことである。他に縛られることがないという点で、最高権力と呼ばれる。国内においては国民を統制する権利である対内主権と、国外から干渉されない独立性という意味の対外主権に分けられる。また、主権者という意味で用いられれば、君主主権や国民主権という形で定義される。現代において、主権は国民が構成することから、日本国内においては日本国民の利益のために主権は行使される。外国籍の移民や永住者に投票権が与えられない根拠となっている。
法の支配
法の役割と分類
相互に人権を保障しながら生活するためには、一定の規則を定め、明確な基準のもとで社会を運営する必要がある。慣習や道徳は、不文律であり、客観性や妥当性に乏しいことから、近代国家を運営するための規則には相応しくない。規則が明文化される必要があるのは、決定された統治原則は、被統治者に知らしめる必要があるからだ。規則を知らなければ規則を守ることはできない。
しかし、客観的に言葉で示された規則「成文法(制定法)」だけが「法」と呼ばれるものではない。判例などで積み上げられた基準は「不文法」と呼ばれる。法律は一般的に、解釈の余地がないほど具体的に明記されるものではなく、さまざまな個別的事案に適合するように抽象的に書かれている。事案の軽重に対応するように、刑罰にも幅を持たせている。法の適用に解釈が必要な場合、その判断に客観性を持たせるために慣習や判例という不文法が適用される。
成文法は、国際法と国内法でまず分けられる。国内法には最高法規である「憲法」と、その下に国会の採決を必要とする「法律」、内閣や各大臣が定める政令、省令・府令などの「命令」があり、地方の条例・規則などもある。実質的な内容で法を分類すると、公的な関係の規律である「公法」と、私人間の権利関係を規定する「私法」、その中間にあたる「社会法」がある。また、権利義務関係を定めた法を「実定法」、その実現を具体的に定めた法を「手続法」と呼ぶ。
法治主義と立憲主義
政治が利害調停の営みとして正常に機能するためには、対立する利害を調停するための規則や政策が、合理的に正しものであることと、その執行に強制力が必要であることの、二つの基準が必要である。ルールを守らせるための強制力として、ルールに違反したときの罰則を設け、金銭的・身体的な不利益を与える仕組みを作るのである。そのような国家権力を「暴力」と呼ぶ人もいるが、犯罪としての暴力に対抗できるのは、言論ではなく相手の暴力を上回る暴力であることは必然なので、国家権力が正義を実現するためのものである以上、その権力を暴力と呼ぶ事は実態にそぐわない。
正義が実現するためには、規則の制定や運用に恣意性を排除し、人々を納得させるような合理的な基準がなければならない。絶対的な権力者が支配する「人の支配」から「法の支配」へ移行したのは、権力を民主化し人々の人権を保障するための営みが、正義と考えられたためである。17世紀、イギリスの裁判官エドワード・コークは、13世紀の法律家ブランクトンの言葉を引用し、「国王といえども神と法の下にある」と主張した。
議会が定める法律があれば、人々の権利が保障されるかといえばそうではない。戦前のドイツは、法律としての形式的手続きが正当であれば、基本的人権を制限できるとする「法治主義」であった。しかしそれでは、悪法もまた法となってしまい、人々の実質的権利を保障することはできない。権力者が好き勝手な法律を制定できないように、法によっても犯し得ない権利の領域を確保するため、法律の上に立つ法=「憲法」を制定することが「立憲主義」である。法の支配の実質的な内容となっている。

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