【倫理】はじめに・目次

序文

 中学までは「道徳」の授業が行われるが、高校では「倫理」の授業となる。道徳と倫理は、どちらも語源が「習俗・慣習」という意味である。慣習が規則となり、規則が法律となっていく課程で、世の中の決まり事は厳格化されて行く。適用範囲も拡大され、より理性的かつ普遍的な原則となっていく。道徳が「規則」であることは明らかだが、倫理は規則なのだろうか。また、道徳的な規則と法的な規則の違いは何か。

道徳と法律の違い

 道徳と法律の違いは、いくぶん明瞭である。道徳は内面の調停に留まり、法律は国家により運用される。道徳的に間違ったことを為せば、せいぜい非難されるに過ぎない。しかし、法律は悪を外的な強制力で規制するために、法を犯せば罰を受けることになる。このことは、道徳が個人の内面的原理(自律)で、法は社会の外面的原理(他律)ということを意味しない。道徳は外的基準が内面化されることで初めて、内的原理となるのであって、私が何を為すべきかを自律的に導く原理ではない。人が社会の成員として、守らなければならない規則を「外から」教えてくれるものである。

 道徳的な規則は一般に「規範」と呼ばれる。規則は決まり事を列挙したものであるが、規範は「規則の判断基準」である。法律は善悪を語らないが、道徳は善悪を語る。法律では「人を殺してはいけない」などと明文化されない。利害を調停する具体的な策が、罰則として盛り込まれているだけである。
 理念法や憲法では、何が道徳的価値を有するかの指針が明記されているが、罰則の伴わない法律は「道徳」と呼んでいいものである。法律の本質的な役割は、理念を示すことではなく、その理念を実現するための方策を示すことにある。言い換えれば、善を明記するよりも悪を規制することが主たる目的である。「法は最低限度の道徳」 という言葉に示されているように、最低限守るべき道徳に、罰則が付いたものが法律である。当然、法の外には守るべきルールとしての道徳が存在することになる。

 ここで、道徳と法律に対する評価の違いを、読み取ることができる。道徳が法律を補完しているのか、法律が道徳を補完しているのか。

 法の適用範囲が最小限であり、かつ不完全である限り、法律を犯さなければ何をしてもいいとはならない。そう主張する立場では、法の不完全性という現実的課題とは別に、人びとの道徳心に対する期待がある。道徳的な悪は「してはならないこと」 として法制化されるが、慈善や義務としての善は「すべきこと」として明文化され、善の不行使に対し罰則を設けることができない。悪の完全なる補足と、善の遂行を法で担うことができないという事実が、道徳が法を補完している(また、補完すべき)と考える背景にある。

 一方で法律が道徳を補完している、と考えることもできる。法律の根拠が道徳にあり、道徳の一部が法律になったのなら、法律より道徳が優位に立つと考えられがちだが、むしろ事態は逆ではないか。道徳的規範は行為を動機づけるための力を有していないからこそ、法律によって行為を規制するための外的な強制力(罰則)が必要なのだと。道徳的に悪いことは、道徳的に悪いというその点において行為を抑制するものではない。良心の呵責や共感などに訴えても効果が無いことが多い。なぜならその行為が相手にとって悪いだけでなく、自分にとっても悪いものとなり得ない限り、行為を抑制する動機とならないからだ。自分にとって悪い行為となるためには、同害報復のような応報原理によって、罪を犯せば罰が下るという仕組みを設ける必要がある。法は外的な強制力によって、道徳の不完全性を補っているのである。

倫理と道徳の違い

 では、倫理と道徳はどう違うのか。人によって定義が違う、語源が一緒なら同じ意味だと言ってしまえばそれまでだが、語の使用の微妙なニュアンスを読み取ることは可能である。

 広辞苑によると、道徳の定義は「行為の善悪を判断する基準として、一般に承認されている規範の総称」である。倫理の定義は「実際道徳の規範となる原理」とある。道徳が規範であるのに対し、倫理は規範の原理(根拠)という訳だ。

 この定義に習えば、道徳の授業では「規範」を教えることはできても、「規範の根拠」を教えることはできないと言うことができる。善悪の規範を根拠なしに教えることは、理屈抜きで頭ごなしに規範を強制することである。その限りで、道徳教育とは「躾」と同じ意味になる。仮に何らかの根拠を例示することができたとしても、通念として説明された公式の答えが、正解であるとは限らない。大抵の場合、習俗や道徳の根拠というのは、存在しないか、隠されているか、偽りの修飾を帯びている。道徳の根拠が自覚的に批判されなければならない所以である。真実を掴みたいならば、道徳的規範を真に受けず、自分の頭で考える必要がある。

 道徳の根拠を探求することは、広く〈倫理〉の領域である。倫理学の一つの役割は、道徳的規範の根拠を探求するもの(=規範倫理学)であることから見ても、倫理とは「道徳+哲学」と定義され得るものである。無論、倫理の射程範囲は道徳領域に留まるものではなく、私はどう生きるべきかという自己の深遠なる問いにまで向かう。社会的存在としての「私」の生き方ではなく、存在そのもの(「私」が存在することと「世界」が存在することが一体であるところの存在)としての〈私〉の生き方である。
 高校の倫理の授業では、倫理のみならず哲学まで教えることから、ここで哲学とは何かについて言及する必要がある。

哲学とは何か

 哲学の語源である「フィロソフィア」は、知を愛するという意味を持つ。哲学とは知を愛する営み=【愛知学】と呼ばれる。正義を求め、真理を誠実に希求する態度は、知に対する愛が根底にあるという訳だ。しかし、知を愛することは、知的探求の根本的な動機となる訳ではない。知を愛しているから、哲学をするのではない。哲学の始まりには「驚き」がある。愛知ではなく求知であることが、哲学の本質的な動機である。
 最も抽象的なレベルでは、「存在」していること、そのものに驚異を抱くことができる。今、生きている存在者は一度も死んだことがない。今、存在している宇宙は、一度も消滅したことはない。全くの無に帰さない限り、消滅ではなく生成である。この世界が存在していることそのものに驚くためには、この世界の消滅=「死」を意識しなければならない。存在への驚異は死への驚怖と背中合わせである。哲学的営みの根底には、愛ではなく一種の狂気が潜むことになるのである。

 また、哲学は答えのない問いを問い続ける営みだ、と言われることがある。これにはいくつか理由がある。一つは、森羅万象が「いかに」存在するのかではなく、「なぜ」存在するのかと、問うてしまう思考方法にある。実践的になぜと問う場合、我々は意図・意志を問うている。「何のために」という形で理由を問うのである。「私はなぜ存在するのか」と言った途端、存在させている何者か(神のようなもの)の意志という形で、答えが要求されてしまうのである。
 非意志的な意味で「なぜ」を使うことも可能ではあるが、その場合、「いかに」あるかの答えが出ても、なぜそうなっているかと、さらなる理由を問題にしてしまう。偶然という答えは許されず、必然的理由を無限に問うことができるのである。
 もう一つは、認識不可能な事柄に対する懐疑をする点にある。例えば、死んだらどうなるのか。この問いには答えがない。何かを認識するためには認識する主体が存在することが前提にあるので、自分の死を認識することは、存在しない自分が存在しない自分を認識するということになり、論理的にも不可能である。

 学問が細分化した現代において、現代における哲学の役割は何だろうか。哲学が問うべき領域は残されているのか。学問的手法が未熟であった古代においては、すべてが哲学の領域であった。哲学は、言葉と論理の武器だけを使って考える学問である。実験や数式などは使わない。科学が世界をあるがままに、客観的に記述すると考えるなら、哲学に残された独自の課題は存在しないものなのか。

哲学と科学の違い

 科学とは何かを端的に表現するならば、「客観的一元論(物的一元論)=唯物論」である。世界を、主観や認識とは独立の「物理的世界」として客観的に記述することである。物理的な法則性は、主観的認識とは独立に存在しているので、世界をあるがまま記述することに、いかなる主観的観点も必要ないという訳だ。すべてを物理現象の現れと見なす科学的視点は、観察主体の問題をとりあえず脇に置いた上での方法論である。
 そのことによって失われる問題は当然ある。「価値」という実践的な問いと、「心」や「意味」という主観的な問いである。科学では解決できないどころか、問題にすらされなかったこれらの問いは、別の学問が担うことになる。善悪や生き方に関する実践的な問いは倫理学と宗教が請け負って、心や意味(概念、論理)の問題は哲学の領域ということになる。
 人の生き方に意味や目的、価値が伴うのは、「心」を有しているからである。心のない物理的機械は感情を持たず、生きることに苦悩や喜びを感じることはない。心が物理的世界(客観的世界)に対する主観的なものであるかはさておき、少なくても「私秘的」と呼べるものであることに間違いはない。振る舞いや表出は心の外的側面であり、それは心そのものではない。心そのものは、主観的に感じることができるだけで、外から観察可能なものではない。心の内的側面は外からアクセスすることができないという事実は、科学的手法が通用しないということである。

 哲学に固有の問題は何かと問われるならば、「心」の問題とまずは指摘することができる。心の苦悩の問題は倫理の問題だが、「心」というものが存在する(したがって〈私〉というものが存在する)という事実は、哲学固有の問題である。そこから心身問題・他我問題、「主観的一元論(心的一元論)=唯心論」、「心身二元論」、認識論、実存主義、現象学など「心」を基準とした議論が展開される。
 また、思考する上での「言語・概念」に着目し、言語学や論理学という分野も哲学の範疇として存在する。

 そして最も重要なことは、心の哲学は「形而上学」であるという点である。反対語の「刑而下」とは、時間空間のもとに形を持って現れる現象世界(実在)のことであるが、「形而上」とは客観的世界の中に現れることのない、世界そのものの根本原理(実体)のことである。「私」は世界の中に位置づけられた形而下的存在者であるが、心としての〈私〉は客観的に捉えることの出来ない形而上学的な存在である。私の死が、世界の中の一人物の死にしか過ぎないのならば、「私」とは社会的な存在者(歯車の一部)以上のものではないだろう。しかし、そのような視点は、自分を客観的に捉えた対他的視点(他者の視点)の世界観である。心としての〈私〉を主観的に捉えるならば、〈私〉の死は世界の終わりである。世界内に存在する一人の人物が死ぬこととは意味が違うのである。

哲学と倫理の違い

 倫理は哲学の領域であるが、ある点において倫理と哲学を明確に区別することができる。

 倫理と哲学の大きな違いは、倫理は行為の指針を求める「どうあるべきか・当為」の領域であるが、哲学は事実を求める「どうなっているか・存在」の領域である。事実と価値を峻別できるなら、両者における「正しい」という意味は当然異なってくる。倫理的な正しさは「望ましい」という価値判断で下されて、哲学的な正しさは「論理的整合性」や「客観的妥当性」で事実判断されるのである。
 さらに言えば、倫理的判断の中でも、「望ましさ」という価値判断の対象になるのは、意志的行為や意図的行為に限るという制約がある。故意か過失か、自律的か他律的かという判断が事実認定された上で、価値判断が下されることになる。

 事実判断の中に、すでに我々の関心が入り込んでいるのだから、事実と価値の峻別はできないという議論もある。しかし、その場合、行為規範を伴わない事実判断という形で、一段低いレベルで両者を峻別することは可能である。どうあるべきかを問う事柄において、どうなっているかの視点を働かせることが、倫理を哲学的に考えることの意義である。どうあるべきかの判断は、どうなっているかを正しく把握しない限り、欺瞞や偽善が混じり込むからである。

 では、哲学的に考えるとはどのような働きであるか。考えるためには、まず前提や根拠を疑う批判的精神を働かせる必要がある。そして、安易に結論を出すことなく、考え得る可能性をすべて吟味してみることが大切である(議論に「ひたりつく」と表現する)。哲学的態度とはこのような、真実に対する誠実な態度のことである。一方、哲学的思考とは、前提を疑う「背進的思考」とでも呼べるものと、「メタ思考」の二つある。もっとあるかも知れないが、私の見解ではこの二つに集約される。一つ手前で考えることと、一つ俯瞰(高み)で考えること。この2つは、通常の思考とどのように違うのか。

 ふつう考えることは、様々な事象を取捨選択・比較検討することである。その際、自分が前提としている価値観まで疑うことはあまりない。背進的思考は前提を疑い、自らの拠り所を切り崩すような、破壊的懐疑を行う。物事の本質を理解するためには、根源まで辿る必要があるからである。内容・実質に深く入り込むというイメージである。

 メタ思考は、逆に抽象化することで形式的に物事を把握する仕方である。問題の構造だけあぶり出したり、本質を形式として把握するために、極めて抽象度の高い思考である。内容・実質を削ぎ落とし、より高い次元から俯瞰するというイメージである。
 また、言葉で思考する訳ではないという特徴が、メタ思考が「メタ」である理由である。概念を操るものではなく、言葉(概念)以前の事柄に対し、直感的に把握するのである。

哲学と宗教の違い

 生きる意味や善悪の問題は、哲学の他に宗教が問題としている事柄である。宗教では、最終的な答えを神ないし神の意志に置く。そして、神の存在証明を物理的因果関係や論理的整合性で証明できないことを持って、理性よりも「信仰」に重きを置く。つまり宗教とは理性の放棄であり、自身に都合のいいストーリーを妄想・盲信する営みである。敬虔な信仰心とは、理性が服従された姿である。

 哲学と宗教の根本的な違いは、論理的整合性を手放さず、最後まで分からないことを考え続けるか、最終的な答えとして「神」というストーリーを盲信するかの違いである。理性と信仰は対極の営みと言っていい。哲学が理性を手放さないのは、真理を探究する営みだからである。宗教が理性を放棄するのは、それが真実を認識する営みではなく、救いを求める「祈り」の行為だからである。どうにも抗えない現実に対し、救いを求める気持ちが「信仰心」である。

 宗教の中でも一神教か多神教によって意味が大きく違う。さらに言えば、人格神か汎神論かで「神」に対する根本的態度が違う。一神教は信仰する者の都合によって、幾らでも神の意志(と称するもの)を捏造・曲解することができるが、人格なき神の場合、あるがままの自然と一体であるので、神に意志など存在しない。救いの対象にもならないので、汎神論には神=自然に対し畏怖の念しか生じ得ない。一神教では救いの対象として神が人格化されるので、一神教は人間のエゴによって要請された創作物であることがよく分かる。

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