ソフィスト
ソフィストは紀元前5世紀頃に、民主主義形成期のアテネで主に活躍した、弁論術を教える知識人の総称である。ポリス間を渡り歩いて裕福な子弟から金銭を受け取り、演説の技術やレトリック(修辞学)などを教えた。民主的な政治形態では、(女性、奴隷を除き)誰もが政治に参加することができたため、民会での演説や訴訟に勝つための言論として、弁論術が重視されたことが背景にある。
ソフィスト以前の哲学者が、主に自然(ピュシス)を探求していたのに対し、ソフィストは人為的なもの(ノモス)である「法・制度・道徳」に関心を寄せた。自然(ピュシス)と人為(ノモス)の分離は、実践的行為において、法・道徳の反自然的側面を浮かび上がらせ、道徳的価値の否定に繋がった。
思想的特徴としては、相対主義・懐疑主義である。客観的真理を否定し、人間や当人の主観による真理の相対性を主張したことから、相手を説得するための弁論術を重視したソフィストは、プラトンやアリストテレスによって詭弁家と批判された。
プロタゴラス
ギリシャ北東部のアブデラで生まれたプロタゴラスは、ソフィストの中で最も有名な人物である。職業教師としては最初の人物だと言われ、アテネで40年間活動した。神の不可知を主張したことから、晩年に無神論者として告発され、書物は焼かれ、アテネから追放された。シチリアに向かう途中の船が難破し溺死したとされる。
「人間は万物の尺度である。在るものについてはそれが在ることの、在らぬものについてはそれが在らぬことの」(断片一)
「神々については、それが在るのか、在らぬのか、どのような姿をしているのかを私は知ることができない。なぜなら、その認識を妨げるものが多々あるのだから。すなわち事柄の不明瞭さとか、人間の生の短さとか」(断片四)
「人間中心主義」と呼ばれる、人間尺度説は、人間の認識は万物の実在に届かない、という意味ではない。無論、そういう意味もあるが、むしろ個々の人間の認識は各人の知覚(及び経験的・歴史的背景)に依存しているので、それぞれ異なる仕方で世界を把握しており、各人を一致させる客観性を確保できないという意味である。
①認識から離れて客観的な事物は語れない(相対主義)、②各人の認識は異なっている(相対主義)
プロタゴラスは②の相対主義を主張したと考えられる。そのことによって、各人の主張に真偽は問えず、価値の優劣も問えないという問題が残る。①の主張をする場合、これまでの自然哲学者が考えた、感覚ではなく思惟により捕捉される永遠不変の「真実在」というものを根本から否定する主張になる。
神の不可知を説くことは、神の存在を前提とする古代哲学者の中では異質であり、より徹底された認識における懐疑が行われていた証である。客観的真理に対する前提を疑い、主観主義・相対主義に徹することは、哲学が進化したとは言えないか。真理は万人にとって普遍的かつ客観的なものである、という前提がここで否定されているのである。 なお、相対主義の思想は、人為的なもの(ノモス)の絶対性を主張するソクラテスと対立する立場となっている。
相対主義は自己矛盾に陥り、自身の主張を正しいこととして確立することができないとよく言われる。「絶対的なものは何もない」という相対主義のその主張は、絶対的に正しいのか。相対主義はどこかで自身を例外として絶対化しなければならないものだと。しかし、この主張は間違っているだろう。相対主義が言わんとしていることは、自他の差を無視した客観性を、真理として確立することができないという意味であり、認識は自他で相対的だという主張は、普遍的に主張するできる。
しかし、事態はさらに複雑だ。相対主義が客観的に正しいとどうして言えるのだろうか。各人の主観にアクセスすることができない限り、それぞれの価値観や感じ方が異なっているなどと言えるはずがない。万人にとって正しいという意味での客観性が確保できないのは、各人の主観が異なっているからではなく、主観は自身で感じられるものとして「一つしかない」という事実からだろう。それ自体は相対化されることがない絶対的なものである。真理とは客観的で絶対的なものであると思われてきたが、客観性と絶対性の間に楔を打ち込むことができるという発見が、「相対主義」の哲学的な意義ではないか。
ゴルギアス
ギリシャの植民市であるシチリア島東部、レオンティノイに生まれたゴルギアスは、代表的なソフィストの一人である。
100歳以上の長寿であったと言われている。前427年に、シュラクサイの脅威から逃れるため、全権大使としてアテナイに救援要請を行った。その時の雄弁が成功し、後にギリシャに亡命した際、修辞学の教師として各地を渡り歩き名を馳せた。
弁論術の著作のほか、失われた哲学の著作『非存在について、もしくは自然について』があり、そこではパルメニデスの存在論に対立する形で懐疑論を説いている。
(一)何ものも存在しない (二)たとえ存在するとしても、人間には知ることができない
(三)たとえ理解できたとしても、他人に伝えることはできない
「あるものは不生にして不滅である」としたパルメニデスに対し、なにものも「あらぬ」と主張する。(一)は、①非存在は存在しない ②存在は存在しない の2つの論証に分かれる。内容は以下の通りである。
【①の論証】あらぬものは存在しない。非存在が非存在として考えられる限りでは存在しない、しかし存在しないものである限りでは存在する。けれども何かがあると同時にあらぬということは不合理である。それゆえ、あらぬものは存在しない。また、存在と非存在は相反するものなので、非存在の属性として存在があるなら、存在の属性に非存在があることになる。しかし存在は非存在ではないし、非存在は存在しない。
【②の論証】あるものは存在しない。もしあるものが存在するなら、永遠なものか、生成したものか、その両方である。もし永遠のものなら始まりを持たない。始まりを持たないものは生成されたものではないので無限である。しかし無限なものはどこにも存在しない。もし空間の中に位置を占めているなら、有限なものとなり、それを包む何かが存在することになる。しかし無限より大きいものはないので、無限なものはどこにも存在しない。
また、あるものは生成されたものではない。非存在から存在が生成されることはない。そして存在から存在が生成されることもない。なぜなら、存在は生成される以前にすでに存在するからである。
存在は存在せず、非存在は存在しない。もしこの2つが同じならば、両者の区別がなくなるので、何もの存在しない。
あらぬものは、「非存在」という意味では存在しないが、非存在として「考えられる限り」では存在するというのは、存在の不在・消失としての「非存在」は考えられるという意味であろう。けれどもそこから、同時性という次元や属性という観点で、双方のあり方の矛盾を指摘するのは的を射ているだろうか。
考え得る限りで存在するとされた「非存在」は、空間的に位置をしめた存在でないことは明らかだ。それは記憶や予期に基づき、現前するあるものの消失としてしか考え得るものではない。無としての「非存在」は主語(あるもの)としては存在しないが、消失としての「非存在」は述語(~がない)としては存在する。したがって矛盾するのは、主語として同格に存在するとした場合であって、その限りで存在と非存在は対立することになる。しかし、属性として考えるならば、属性とは主語に対する述語のことであるから、存在の属性として非存在が組み込まれているのは自明なことである。
ただし、属性(述語)として非存在が現れるのは、時間空間の中に規定された存在(あるもの)のことであり、無規定的かつ全一的な存在そのものに対して言われるものではないことに注意しよう。
ゴルギアスは「永遠」を時間的概念、「無限」を空間的概念と捉えている。また「存在」を個別具体的な存在者ではなく、全一的な「存在そのもの」として論じている。時空の中に存在する存在者ではなく、時空の存在も含めた全一的な「存在」は、何かに規定されたものではなく、ただ「ある」という無規定的なものである。その「存在」がどこにも存在しない、と言った場合、その「存在しない」は、時空の中で存在しないと言っていることになる。永遠なる存在の否定とは、存在そのものは、存在者ではないと否定しているのである。
また、存在は生成されない、と言った場合の生成以前の存在とは、無から有は生み出せないとする、無規定的な存在そのものことである。しかし、生成される存在は、個別具体的な存在者のことなので、ここでもやはり、存在そのものは存在者ではないという形で否定していることになる。つまり、ゴルギアスは存在そのものの概念と存在者の概念の矛盾を指摘し、それゆえ存在は存在しないと言っている。しかし、結論としての「存在しない」は、時空の中に存在そのものは存在しないという意味でなので、存在そのものが存在しないのか、存在者が存在しないのか、明確に語られずうやむやになっている。
次に、(二)存在は知ることができない、ことの論拠はゴルギアスはこう述べている。存在の本質規定が考えられるものであるなら、考えられているものが直ちに存在するのでなければならない。しかし、存在しないものも考えることができる。したがって存在は考えられるものではない。
(三)他人に伝達できない、ことの論拠は、存在は感覚されて捉えられるものだが、言葉には基体(存在)と感覚のような直接的つながりはない。また、言葉は存在そのものでもない。そして、言葉を伝えるものと受けるものが同一のものを理解しているかは確認できない、と述べている。
考えられるかどうかは、観念の領域であり、対象とは無関係に想像することができる。しかし視覚や聴覚などの五感は、通常、対象からの刺激と直接的なつながりを持つ。存在者の存在を否定する論拠に、知覚ではなく思惟を用いるのがふさわしいとは思えない。また、「存在するものは考えることができる」という主張を覆すために、「存在しないものも考えることができる」という反証事例を持ち出し、「存在は考えらるものではない」と結論づけるのは暴論だ。ここでは、考えられるものが実際には存在しないこともあるという事実から、存在するものは考えられないと言っているが、「存在するものが考えられない」論拠は一切述べられていない。考えられて、かつ存在するものがある以上、全部をひっくり返すことはできない。
他人への伝達が不可能とされたのは、言葉が対象(存在)に届かないという点と、言葉の構成によっては解釈の余地が与えられ、対象を正確に記述し伝達することができない、さらに正しく伝達されたか判断できる視点はないという点だ。主観が客観に届いているか。言葉が対象を記述できているか。この2つの問い以上に深刻なのは、自他の断絶を埋めることができるのか。両者を超越する普遍的な視点に立てるのかという問いである。それはできないとする懐疑論が、価値の相対性、事実の相対性を生み出すソフィストの思想の源泉なのである。


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